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Ray-Ban History
<レイバンの歴史>

前日譚 1853-1937
〜 Ray-Banが誕生するまで 〜

「サングラスといえばRay-Ban」と言われるほど、世界的なブランドとして確立されているRay-Ban(レイバン)。光学技術に裏付けされた機能やクオリティは、パイロットをはじめとする様々なシーンのプロフェッショナル達に支持され、高いデザイン性は俳優、女優に愛され世界中の映画を代表するメディアに登場しています。

ブランドができてから半世紀以上、アイウェアの歴史を作り続けるリーディングブランドのヒストリーを紹介します。



ドイツから新天地アメリカへ

1828年、ドイツでヘンリー・ロムという男の子が生を受けます。そして、その2年後、1830年には、同じくドイツの地でジョン・ジェイコブ・ボシュという男の子が生まれました。ボシュは少年時代から10歳年上の兄の元で眼鏡作りに従事していました。その後、スイスの眼鏡店で眼鏡技師として働いたのち、彼が19歳になった時、そこで身につけていた眼鏡職人としての技術で成功を収めることを夢見て、新天地アメリカへ移住する事を決断します。ところが、1848年1月24日に農場主ジョン・サッターの使用人ジェームス・W・マーシャルがアメリカン川で砂金を発見したことで始まったゴールドラッシュの影響で、1949年に移住した彼が当時のアメリカでみたものは、職を探す移民の群れと過酷な労働条件でした。しかしボシュはその現実から逃げる事なく、木工旋盤職人として働く傍、ヨーロッパから眼鏡を取り寄せて販売する事業を展開します。



J.J.ボシュとH.ロムの出会い

立ちはだかる困難にめげる事なく、新事業を粛々と続けていたある日、ボシュの運命を変える一つの出来事が起こります。1849年、時を同じくしてドイツからアメリカへ移住していたヘンリー・ロムとボシュが出会います。キャビネット作りを生業とする家具職人として働くロムは同じく職人気質のボシュと意気投合し、共同で事業を行う事を決断します。そこでロムは、眼鏡の輸入販売を行うボシュの事業に60ドル(≒1800ドル 2018年価値)を出資しました。1853年、ボシュはこれを元に念願の眼鏡店を開くことになります。


【写真】1853年にBausch & Lomb Optical Companyを設立したJ.J.ボシュとH.ロム

道端のゴムから「バルカナイト」の誕生

運命的な出会いからボシュは眼鏡店を開店し、ドイツから眼鏡器具を輸入するなどしてビジネスを行なっていましたが、経営はなかなか順調には進みませんでした。しかし、ある時、ボシュが道端に転がっていた硬質ゴム片を道端で見つけます。彼はとっさにこのゴム片を眼鏡のフレームに使う事はできないかと考えました。当時、フレーム素材はアメリカ産の動物の角で作られたフレームが一般的でこれには非常に脆く壊れやすいという欠点がありましたが、硬質ゴムは、安価で加工しやすい素材として、ペンやくし、アクセサリーなど様々な製品に利用されていました。ボシュはそこで道端のゴムにヒントを得て、ゴムを使った眼鏡フレームを試作します。そこで作られたフレームは角製に比べて軽量かつ耐久性にも富んでおり高い品質を実現できる事に気づきます。これが当時でいうプラスチックのような存在であり、後に「バルカナイト」と呼ばれる素材になります。そこで開発したバルカナイト製フレームは大ヒットし、彼らの会社は一躍有名になります。そして、1866年「ジェイ・ジェイ・ボシュ・アンド・カンパニー」という社名を「バルカナイト・オプティカル・インストゥルメント・カンパニー」に改名します。

ボシュロム・オプティカル・カンパニー

1874年には社名を「ボシュロム・オプティカル・カンパニー」とし、光学分野にも進出します。14歳で簡単な顕微鏡を作るほど優秀なボシュの息子であるエドワードは、コーネル大学で工学を専攻した後、父であるボシュの事業に参画し、顕微鏡の製造を開始します。そして、1876年には建国100周年のフィラデルフィア万博で賞を受賞し、大量生産が可能になった顕微鏡の価格は一般的な人でも手に入るものになります。ここでの功績を基に、1880年代には、製造ラインに写真用レンズが加わります。エドワードは、この分野でも才能を発揮し、新しい技術を開発していきます。1880年代には、何枚にも重なる葉状の部品が円形の開口部を構成し、露出時間に合わせて絞りの大きさを調整できる「レンズ間アイリス型ダイヤフラムシャッター」といった当時最先端の技術の開発していきます。この技術が盛り込まれたボシュロムレンズは、当時同じロチェスターに本社を置いていたEastman Kodak社のカメラにも採用され、「カチッ」という音と共に機敏にシャッターを切るスナップショットカメラを登場させ、スナップ写真を撮る行為をよりポピュラーなものにしました。そうして世界では写真の需要が上昇し、さらにその写真を大きなスクリーンに映し出したいというニーズも高まりました。これに合わせてボシュロムはBalopticonというスライド映写機を開発し、静止画像の映写分野に参入します。この映写機はガラス製のスライドと共に広く学校、大学、市民団体などに普及していきました。 順調な発展を遂げるボシュロムには、先進技術以外に、もう一つの特徴的な側面がありました。それは、共済組合を発足し、労働者に保険を提供するなどといった、福利厚生や教育といった面でのサポートでした。利潤ばかりを追求するのではなく、労働者の待遇にも最善を尽くしていった当時としては革新的な経営思想はH.ロムがもたらしたもので、その他にもロムは従業員の技術教育のために、個人の財産を投じてメカニック・インスティテュート(技術学校)を設立し運営しました。このメカニック・インスティテュートは、ロチェスター工科大学として現在に至っています。こうして、この時代にボシュロム社が製作した顕微鏡やカール・ツァイス社のカメラに採用された写真用レンズは、一級品の評価を得ており、当時「光学機器はドイツ」と言われたいた常識を打ち破り、アメリカの高い技術力として世界中に広まります。この時すでに、彼らの事業は眼鏡フレームに留まらず多角的な方面で成功を収める優良企業へと成長していきました。そして、ボシュロム社はアメリカでもトップクラスの光学メーカーと言われるまでになっていきます。


【写真】1880年代のボシュ&ロム工場


【写真】ボシュロム社が製作したメガネと顕微鏡

アメリカ陸軍航空隊からの依頼

1900年代の前半、会社はJ.J.ボシュとH.ロムの時代から、彼らの息子達であるエドワードやウィリアムの時代へと移っていきます。世界は第一次世界大戦(1914-1918)、第二次世界大戦(1939-1945)と激動の時代を迎えていきます。そんな時代背景の中、先進の技術は歴史の流れに合わせて活躍の場を広げていきます。その中でも双眼鏡や望遠鏡、測距機など、世界の海へ繰り出すアメリカの艦隊には正確な測定を可能にする光学機器が必要とされていました。 他にも、航空機に搭載される測量用航空カメラレンズやパイロット用のゴーグル、眼科検査機器など高性能な光学機器を製造します。そして、サーチライト・グラスの開発を皮切りに、アメリカ政府からの依頼が増えてきました。このタイミングで、アメリカ合衆国陸軍航空隊のジョン・マクレディ中尉からパイロット用アイウェアの開発依頼が舞い込んできます。


【写真】ジョン・マクレディ中尉

Ray-Banの誕生

彼は1923年5月、北米大陸無着陸横断飛行に成功した空の英雄でした。彼は飛行での経験から、太陽光戦に起因する眼球疲労と視力低下、そして頭痛、吐き気といった飛行による弊害を取り除くためアメリカにおけるトップクラスの工学メーカー、ボシュロム社にパイロット用アイウェアの開発を依頼しました。それまでのアイウェアの代替品は風除けや色付き眼鏡としてのゴーグルの役割しかなかった事から、ボシュロム社では工学的な裏付けをもつアイウェアの開発に取り掛かっていきます。開発は困難を極めましたが1929年6年越しにパイロット用アイウェアの開発に成功します。この時発表されたのが、「レイバン・グリーン(G-15)」として有名な緑色のレンズとボシュロム社オリジナルデザインの「ティアドロップ・シェイプ」です。翌年にはアメリカ合衆国陸軍航空隊がこれをアビエーターとして正式採用すると、このモデルがパイロットのシンボルとなり、アメリカの強大な航空技術を背景に世界の空を駆け巡ることになります。そして、1936年アビエーターモデルを「クラシックメタル」として一般発売がスタートし、1937年には、光を遮るという意味の「Ray-Ban(レイバン)」というブランド名が誕生しました。こうしてサングラスの代名詞といわれるRay-Ban(レイバン)として様々なモデルの登場へと続いて行くのです。



参照:ボシュロムの歴史, THE STORY OF BOUSCH & LOMB



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